魔法のランプは誰のもの?

先日、映画『アラジン』を楽しんできました。アラジン初の実写化ということで、今とても話題になっていますね!当日は3Dバージョンの作品を鑑賞して来たんですが、あの魔法の絨毯に乗って飛んでいる感覚も味わえ、作品の内容とともに本当に楽しむことが出来ました!

さて、今回のテーマはそのアラジンの作品の中に出てくる「魔法のランプ」です。言わずと知れた世界で一番有名な、あのランプ。何でも夢が叶っちゃうあんなランプがあったらいいなぁと、そんな思いを持たれている方も本当に多いんじゃないでしょうか。何でも夢が叶っちゃうなんて、そんなランプがあったら本当に夢のようですよね!

でも、今回この作品を観ながらふと思ったことがあります。それは、このアラジンという作品は私たちに何を伝えたいんだろうか?一体何を伝えたくてこのアラジンという作品は生み出されたんだろうか?ということです。

僕なりに考えた結果、おそらくその答えは、「魔法のランプはあなた自身の心だよ」ということであるように思います。魔法のランプそのものもあなた自身の心であり、そしてそのランプから現れ夢を叶えてくれる魔法使いジーニー自身もあなた自身の心。ランプもジーニーもあなたそのもの。そんなメッセージであるような気がしてなりません。

つまり、「あなたが望めば何者にでもなれ、どんな夢でも必ず叶う。人生はあなた自身の好きなようになる」。そのことをこの作品は伝えたいのではないかと、そのように思います。ディズニーが世界中の子どもたちに伝えたいメッセージはそこにあるでしょうし、原作である『アラジンと魔法のランプ』を著した著者も、きっとそのことを伝えたかったんじゃないかと、そのように感じています。

落ち込みそうになった時は自分の心をキュキュッと擦り、決して諦めない心を自身の目の前に登場させたいと思います。大きな勇気を与えてくれる、そんな作品でした。これからも多くの人がアラジンという素晴らしい作品に出逢えるといいですね。

今日も読んで頂きありがとうございました。みなさんの人生がより幸せに満ち溢れたものになりますように。

美味しいってなに?

今日のテーマは、美味しさ。

私たちが日々生活している中で“美味しい”“美味しくない”っていう表現によく出会いますよね。このハンバーグは美味しい、とか、このパスタは美味しくない、とか。僕自身コーヒーや紅茶の世界で働いているので、“このコーヒーは美味しい”、とか、“この紅茶は美味しくない”、とか、こういった表現は日常的に使います。

でも、この“美味しい”とか“美味しくない”って、一体なんなんでしょう?“美味しいもの”は誰が食べても美味しくて、“美味しくないもの”は誰が食べても美味しくない、のでしょうか?少し難しい言い方をすると、「客観的に美味しいもの」って存在するんでしょうか?日本人が食べても、ブラジル人が食べても、ガーナ人が食べても、美味しいものはやっぱり“美味しい”のでしょうか?

この“美味しさ”というものを話題にする時に必ず出てくるワードが、「好み」というワード。「わたしはとんこつラーメンが好き」とか「わたしは辛いカレーの方が好き」とか、「わたしは深煎りのコーヒーよりも浅煎りのコーヒーが好き」などという、“個人の好み”に関する問題です。先ほど出した“客観的”という言葉に対し、“主観的な”内容の言葉ですね。

多くの場合、「わたしはとんこつラーメンが好き」と言っている本人は“とんこつラーメンは美味しい”と思っている訳です。反面、「わたしはとんこつラーメンが嫌い」と言っている本人は“とんこつラーメンは美味しくない”と思っています。この場合の「美味しい」はある意味“好き”というニュアンスに近いのかもしれませんね。「美味しい」と「好き」が同様な意味で使われています。(言っている本人はそのつもりはないかもしれませんが)

「辛いカレーが好きな人」は「辛いカレーが美味しい」と思っており、当然のことながら「辛いカレーが嫌いな人」は辛いカレーのことを「美味しくない」と思っています。深煎りのコーヒーを問題にするにしても、 同じようなロジックが成り立つはずです。

では、こういった場合に言う“美味しさ”というものは本質的な意味での“美味しさ”を表現しているのでしょうか?いや、そもそも“本質的な美味しさ”って存在するんでしょうか?

僕自身のこれまでの経験からすると、おそらく「客観的な美味しさ」というものは存在するように思います。ただ、食材を調理した状態である、いわゆる「料理」に対しては客観的に評価を下すことができるのか、正直よく分かりません。とんこつラーメンを食べて、日本人でもブラジル人でもガーナ人でも、皆が同様に客観的に美味しいという評価を下せるのかどうかはなかなか難しい問題でしょう。人の味覚は育ってきた環境で何を食べて来たのか、父親や母親にどのような料理を作って貰っていたのかなどの外部要因による影響をやはり受けるため、それはつまり個々人の“経験”といったものが味覚に影響を与えるため、ある料理を人類みなが美味しいと感じるかどうか、またその料理を客観的に美味しいと評価出来るかどうかはなかなか難しい問題であると思います。念のために断っておきますが、ここで言う“美味しさ”は、体調がいいとか悪いとかの生理的要因や、気温が高いとか低いとかの環境的要因は考慮しないものとしています。あくまでベストコンディションでの客観的評価です。“空腹が最高のスパイス”とは別次元のお話です。

そんなちょっと難しい問題を抱える美味しさの問題ですが、とはいえ、同じ文化の中で育って来た人たちの中であれば、ある程度精度の高い“客観的な美味しさ”という評価を下すことが出来るのではないかと思っています。つまり、比較的同じようなものを食べて来た日本人の中であれば、“客観的に美味しいとんこつラーメン”を決定することができ、さらに他の地域の人達よりもよりとんこつラーメンを食べているであろう福岡の人たちの方が、より“客観的に美味しいとんこつラーメン”を評価出来るのではないかということです。それでも“本当に”美味しいかどうかという問題は依然残りますが、ガーナ人よりはその精度は高くなるように思います。

このことはつまり、「客観的に美味しいと言えるかどうか」という問題において、その対象となるものをこれまでに何回食べているのか、という数的な経験の問題と、どれだけ種類が異なる同様のものを食べているのか(とんこつラーメンに例えるとどれだけ違うお店のとんこつラーメンを食べているのかなど)、という対象物の比較経験、という2種類の“経験”という要素が大きく関わって来るのではないかいうことです。比較経験においては「美味しくないもの」を経験していることも求められてきます。マイナスを知らなければ、当然プラスを認識することが出来ません。

美味しいとんこつラーメンを決めるのにはやや時間が掛かりそうですが、より“客観的な美味しさ”が判断しやすい分野もあるように思います。それは「食材そのもの」を問題にした場合の美味しさです。つまり、野菜や果物、生のお魚やお肉といった、調理された状態のものではない、素材本来の味を味わうことが出来るものですね。これにチョコレートやパン、コーヒー、紅茶、米、そばなど、やや加工を施したものも食材そのものに近いグループに含まれるでしょう。味付けのされていない出汁やスープもこのグループに入るかと思います。

これらの食材に関しては、どの国で育ったのかや、どのような両親によって育てられたのかなどというものはあまり問題にならないのではないかと思っています。

ただ、この“美味しさ”に関する問題。その美味しさを見極めるためには、やや能力的な問題も関係してくるのではないかと思ったりしています。つまり、美味しさを見極める能力が高めの人とそうでない人がいるのではないかということです。分かりやすいところで言うと、アンジャッシュの渡部建さんは美味しさといったものを感じるその能力が高く、感度も客観的な美味しさを示しているのではないかと思います。彼の言う「美味しい」は決して彼の「好み」ではなく、誰が食べたとしても感じることの出来る“客観的な美味しさ”。そのようなものであると思っています。それゆえ、彼は多くの人に支持されているのではないでしょうか。

今回テーマにした「美味しさ」という問題ですが、おそらくそう簡単には答えは出ない問題であろうと思います。ただ、だからこそ大変おもしろいテーマであり、奥が深く、国籍を問わず世界中の多くの人たちが興味を持つ問題なんだろうと思います。答えがなかなか出ないからこそ、いやもしかしたら答えなんてそもそもないかもしれないけれど、それでも答えがあると信じて探究する。そういった感じでしょうか。

色々と述べてきましたが、純粋に美味しいものは楽しい。美味しいものは私たちにほかでは替えることのできない、独特の幸福感をもたらしてくれます。そんな食という存在に感謝しつつ、これからもフードジャーニーを歩み続けていけたらと思います。

今日もお読み頂きありがとうございました。みなさんの人生がより幸せに満ち溢れたものになりますように。

そのまちが持つオーラ

いろいろな町を旅したり住んでいると、その町がもつオーラというものに敏感になる。

父親の転勤の影響で、和歌山、大阪、滋賀、岡山という土地で幼少期と青年期を暮らし、大学時代は山梨、大学を卒業してからは東京で暮らした。

大学時代には鉄道や船を利用し、日本一周旅行を行なった。ゆっくりと時間をかけて巡りたいところではあったが、当時は10日間ぐらいでのハイスピードでの日本一周であった。ただそれでも、日本各地の違いを肌で感じ取ることが出来た。

大学入学の頃から父親が単身赴任となり、赴任先が変わる度に父親のもとにも遊びに行った。訪れた町は松江、高松、京都、高知。父親が暮らしている町とともに、その町の周囲の町もたくさん訪れた。それぞれの町にそれぞれの雰囲気があり、見える景色、聞こえる音が全く違う。そして何よりもオーラが違う。その町が創り出す、その町独自のオーラだ。

東京という街をひとつ取ってみてもそうである。北千住、渋谷、品川、中野、吉祥寺。三軒茶屋、築地、銀座、六本木、自由が丘、浅草。どの町も立派なひとつの町ではあるが、それぞれが持つそのオーラはまるで違う。何十年、何百年とかけて創り出してきた、その町独自のオーラである。オーラ、それは波長という言葉でも表現できるだろう。その町が放つオーラ、その町が放つ波長。私たち人間は感覚的に存在しているそれを、動物が持っている本能的な嗅覚で無意識の内に感じ取っているのだろう。

そして、たくさんの町が独自のオーラを持つように私たち人間もまた、その一人ひとりが独自のオーラ、波長を持っている。そして私たちは、自らの波長と町の波長が一致する時、無意識的に“この町に住みたい”、“この町はいい町だ”と感じ、その結果その町の波長にフィットした人たちが自然とその町に集い生活をスタートさせる。そして段々とその町の波長が形創られていくのだ。その町の波長はその町の波長であると同時に、その町に住む人たちの波長でもあったのだ。

「自分自身のフィーリングに沿って生きる」。このことはわたしたちが幸せな人生を手に入れるために必要な、大切な方法のひとつなのかもしれない。他の誰でもない、あなた自身の感覚。みなさんが、みなさん自身の人生の中において、とっておきのベストタウンに出逢えますように。住みたい町に住む。それは人間の大きな幸せのひとつだ。

今日もお読み頂きありがとうございました。みなさんの人生が幸せに溢れたものになりますように。