音楽教室著作権料問題に最高裁判決

newspicks.com/news/7713058/

兼ねてから気にかけていた問題で、JASRAC側の主張も半分分かるような気もしていましたが、「生徒は不要」との最高裁判決は至極真っ当な判決かと。個人的な気持ちとしては、対象が子どもであろうが大人であろうが、教育を目的としていれば例え教師であれ著作権料は不要にして欲しいところです。「世知辛い世の中になった」とよく言われますが、こういった問題にもそのような部分を感じま

【オリンピックの開催意義〜やはりそれは人類の結束〜】

今さらながら、オリンピックです。賛否両論ありますが、オリンピックについて思うところをつらつらと書き連ねたいと思います。

東京オリンピックの開会式、素晴らしい開会式でした。Newspicksでのコメントをはじめ、賞賛の声が多いようです。

「始まったからには応援しよう!」。開催以前には東京オリンピックに対して否定的な意見を持っていた人たちも、少なくとも開催期間だけは応援やポジティブな態度で接しようという態度に移っているようです。

個人的に想像を超えて好印象だったのは橋本聖子会長のスピーチでした。ご自身がアスリートであったという経験も踏まえた素晴らしいスピーチで、胸を熱くするものがありました。何よりも、久しぶりに彼女の心からの笑顔を見れたことは心をホッとさせてくれました。森喜朗前会長でも素晴らしいスピーチだったでしょうが、橋本聖子さんが会長に就き本当に良かったと、そう思わしてくれるスピーチでした。

開会式全体を通して感じる事ができた「多様性の尊重」や「人類の結束」、「平和であることの素晴らしさ」といったものは、やはりオリンピックだけが持つ特殊性であり、単なる「スポーツ競技の競技会」ではないんだということを改めて認識いたしました。各種ワールドカップや世界大会では表現出来ないものを体現する場。それがオリンピックなのだと思います。

「オリンピックに崇高さを求めるな」などという意見もたまに耳にしますが、私自身はどこまでも崇高さを求めていくのがオリンピックなのだと思います。

【4月はカフェ訪問を自粛します】

わざわざこの場で言わなくてもいいかもしれませんが、コロナウイルス感染拡大防止の観点から、4月は一切のカフェ訪問を自粛します。少なくとも、まずは4月いっぱい。日本の状況を見ながら、5月いっぱいや6月いっぱいに延びるかもしれません。
5月や6月にカフェに行けるようにするためにも、今の自粛が必要だと思います。

ちょっとした油断が、第二の志村けんさんを生みます。第二の志村けんさんが、もしかしたらみなさんのおじいさんやおばあさんかもしれませんし、最近の事例を見ているとみなさんの愛する息子さんや娘さんかもしれません。

感染し、重症化すれば、すぐです。

命さえあれば何年後でも何十年後でもお酒やコーヒーは楽しめます。目黒区長の言葉ではありませんが、目黒川の桜は来年も咲きます。

一時の欲望が取り返しのつかない事態を生む。
今は皆がそのような認識を持つべきでしょう。

テレワークで会社が回るなら、もうずっとそれでいいじゃない?(って多分多くの人が思ってる)

テレワークや時差出勤で会社が、あるいは仕事が回るなら、もうずーっとこれからそれでいいじゃない?って思います。それで仕事が回るのに、なんで会社行かなきゃならない?古臭いおじさんが「オレの見えないところで何してるかわからん!」とかいう実にしょーもない理由がその理由じゃ、まさかないでしょう?別にあなたのために仕事してる訳じゃありませんよ?それに「態度」が仕事の質やあるいは勤務評価に繋がることそのことが化石時代ですか?って話です。

都会の満員電車も、無駄な通勤時間も、無駄な交通費も、無駄な早起きも、無駄なストレスも、全てなくなります。

強制的な働き方改革。こういう非常事態時だからこそ、新しい時代の新たな形が生まれるのだと思います。

明治維新も(正確には維新前夜の江戸末期)、第二次大戦直後も、とてつもない非常事態でした。ですが、そこから極めて多くの新しい形やアイデアが生まれました。

明治維新を否定し侍を存続させることが最善策ですか?敗戦を否定し全国民を無駄死にさせること(本土決戦)や旧天皇制を維持することが最善策ですか?

どんな時代も必ず抵抗勢力や既得権益にしがみつく人がいます。しかし、その人たちは早番死滅します。

「適応能力がある生きものが生き残る」。
ダーウィンがこのようなことを言い遺していますが、まさにその通りだと思います。

コロナはいつか必ず収束を迎え、人類の敵ではなくなります。しかし、私たちの生活はその後もずっと続きます。日常は、いずれ必ず戻ってくるのです。

その時どのようなスタイルで、どのような気持ちで生きるのか。どのような気持ちで自分自身の人生に向き合うのか。今まさにそういうことを考えることが求められているのだと思います。

もしかしたら、世界を巻き込んだコロナ騒動は、神様からの温かい、でもちょっと厳しいプレゼントかもしれません。人類よ、もっと高い位置に来い。

〜新型コロナウイルス〜世界各国の対応から考える


コロナウイルスの感染防止策に関し、先週から世界各国の動きが極めて活発になって来た。欧州各国は極めて強い措置を実施し、ニューヨークでも外食禁止令が発令されている。

比較対象として日本を見てみると、欧州やNY等までの強い措置はまだ実施されていない。緊急事態宣言発令の可能性は依然残されているが、現状では国内の経済活動を考慮した上での判断が採用されている。安倍総理の頭の中は、世界各国の判断やトランプ大統領の発言・判断など様々なことを考慮した上での最適なバランスを取ることで支配されているだろう。

個人的な感想としては、世界の先進諸国が封鎖措置や経済活動を止める措置を実施している中において、いわば外圧的な判断としてより強い自粛要請を安倍総理が行うのではないかと見ている。「日本だけ何もしていない」という状況を作り出すことは、今後の国際情勢において得策ではないだろう。

さて、世界各国の対応を見ていると、「生きていく上において何を大切に考えているか」という点に関しての考え方が垣間見える気がする。

端的に言うと、「世界各国は命や人生を」、「日本はお金を」ということである。

世界、特に欧州と米国の歴史を見てみると個人の人権や自由、つまり「公的な価値よりも個々人の人生や家族、生活」を東洋諸国よりもより意識して生きるよう努力した経緯がある。”だからこそ”公権力を発動し、経済的活動を極めて強く制限し国民一人ひとりの命を守ろうとする。

反面、日本という国は良くも悪くも個々人の収入や企業の収益に”配慮”し、強い経済的制限を掛けようとしない。言わば国民一人ひとりの命を守ることよりも経済活動の方が優先順位が高いということである。「経済活動こそ命につながる」という意見もよく分かるが、感染が不必要に広がり無駄な死者や重篤者を出さない方が国民の命を守る政府としては必要な政策であるように思う。

自分自身の収入が途絶えることや減ることはある意味自己責任であるし、それを政府の責任や会社の責任にすることは容易な責任転嫁であるように思える。

自由主義社会であるからこそ、政府は強力な権力を行使し経済活動の制限を掛けるべきであろう。

今日もお読み頂き、ありがとうこざいました。みなさまの人生が、より充実したものになりますように。

正しい知識を持つということ。

みなさんご無沙汰しています。

久しぶりのブログの投稿となります。

継続的にものごとを行なっていくことって大切ですよね!僕も怠けずにコツコツと継続する力を身につけていきたいと思います!

さて、世の中はコロナウイルスの対応で大変なことになっていますが、個人的な感想としては少し騒ぎ過ぎかなという印象を持っています。

確かに未知のウイルスだけにその影響がどのようなものなのか不安になる気持ちは分かりますが、マスコミの情報や世間のウワサに影響を受け、必要以上に恐れているような気がします。

コロナウイルスとインフルエンザなどを比較した場合、死者数や罹患者などは遥かにインフルエンザの方が規模が大きいですし、マスクの予防効果に関しても専門家の意見を基にするとその効果には疑問が残ります。

過剰な報道や情緒的な報道が先行し、またSNSなどでの間違った情報を基に行動を起こしてしまう。人類はこれまでの歴史を見てきてもそのようなことを続けてきましたが、そろそろそのような行動は慎むべき時代に来ていると思います。

正しい情報の基、個人個人が冷静な判断を。私自身も何事も冷静な目で判断を下して行きたいと思います。

今日もお読み頂き、本当にありがとうございました。皆さま方の人生がさらに豊かなものになりますように。

同時に、コロナウイルスの影響が早急に収束しますように。

恩赦について考える

恩赦に関し批判の声も多数あるので個人的な見解を。

批判も覚悟であるが、私自身は恩赦に賛成である。

例え私自身が犯罪被害者であったとしても、「恩赦に反対」の立場に転向を行うことはしたくないと思っている。

それはつまり、「人間の可能性を常に追求したい」からであり、自分自身を含めすべての人間は犯罪者予備軍であると思っているからである。

同時に人間は過ちを犯してしまう存在であり、またその行為時代が本当に「悪」なのかどうか、判断しかねる事例もあるからである。(例えば大麻の所持や使用は本質的な意味において「悪」なのかどうか疑問である。立憲国家であり、罪刑法定主義である以上しょうがない側面もあるが、日本国内ではまるで悪人のように取り扱われ、社会的な制裁を受ける)。もしかしたら50年後にはコーヒーを飲んだら犯罪者になっているかもしれないのだ。(同様な意味においてアルコールの摂取とタバコの使用はかなりあやふやなラインにあり、時代や為政者によっては違法にも合法にもなる存在であると思う。)人間がこの世の中において生きて行く上では、「法律」をその判断基準にするべきではないと思う。基準を法律に置くのではなく、その人自身の中に価値基準を置くべきだ。

(もちろん、犯罪行為というものは決して「善悪」による判断ではなく、あくまで法律という一定のルールの「違反行為」でしかないという立場も理解でき、その違反行為に関しペナルティーを課しているだけに過ぎないという見解も十分に理解出来る。つまり、「犯罪行為=悪」ではないという考え方である。ある意味、そうした理解の方が物事はスムーズに理解しやすいかもしれず、他者からの理解も得やすいかもしれない)

さらに、「人を赦す」という行為が本質的な意味においてその人自身の人間性を高めるという点も恩赦を賛成する理由のひとつである。恩赦という行為が、立法府の判断を行政権が超法規的に覆す許されざる行為という意見もあるが、私の意見としては「そういう人間界の難しい考え方は一旦抜きにして」、一度再出発のチャンスを与えてもいいのではないかと思っている。

犯罪行為自体は許される行為ではないし、もちろんそんなことは本人も周りの人間も重々承知していることだろう。ここで重要なことは、「本人も悪いことをしたと思って反省しているだろう」と”周りの人間が期待する”ということである。もしかしたら反省していないかもしれないし、めちゃくちゃ反省しているかもしれない。それはそれこそ当の本人にしか分からない。周りの人間がその人に出来ることは、”その人を信じる”、そのことだけである。犯罪行為を行なってしまう人の多くは、その多くが人からの愛情や信頼を受けることが出来なかった人たちだ。足りないのは罰ではなく人の愛情だ。もちろん罪を犯している以上相応のペナルティーは受けなければならないのは当然だが、それ以上に周囲からの愛情や信頼が必要なのだ。もしかしたら10年、30年、あるいは50年掛かるかもしれないが、周りの人間がその当人への期待や信頼を諦めた瞬間、その当人の人間性回復の道も閉ざされたに等しい。

そうならないためにも、まずはその人のことを赦さなければならない。その人の生い立ちや周りの環境などを踏まえた上で、その人のことを赦さなければならない。もしかしたらその立場になれば、私自身も同じ行為をしてしまっていたかもしれない。「していない」、「するはずがない」ということは決して言えないように思うのだ。なぜなら我々人間は、理性的な判断よりも感情的な判断になりがちな生き物だからだ。だからこそ、人は理性的な判断を心掛けなければならないのであるが、得てして人は感情的な判断に流されてしまいがちである。それゆえ、間違いも犯す。

話が長くなってしまったが、恩赦制度には私は賛成であり、今後も継続されていくことが望ましい制度であると考える。

※補足であるが、なぜだか日本国内では“逮捕“をされただけでまるでその人が犯罪者であるような取り扱われ方や報道がされるが、そのような風潮は改められるべきだ。逮捕という行為はあくまで身柄を拘束する行為でしかなく、無実あるいは無罪かもしれず、犯罪行為はまるで確定していない段階での警察等の行為である。報道機関においては実名や写真等の公開は有罪確定後に行われるべきではないか。