〜Cafe Voyage Tokyo〜瑞江・dankin st coffeestand〜

みなさんこんにちは。オススメのカフェや日々訪れたカフェを紹介するCafe Voyageシリーズ。今日は江戸川区瑞江の心落ち着くカフェです。

さて、みなさんがコーヒーや紅茶を楽しむ時、やっぱり一緒に楽しむお供が欠かせませんよね!ケーキであったり、クッキーであったり、ナッツであったり、時には日本の和菓子なんかもぴったりです!

マリアージュ、なんて言葉がありますが、本当にコーヒーだけでもダメだし、ケーキだけでもダメ。紅茶だけでもダメだし、クッキーだけでもダメ。お互いが揃ってこそのナイスカップルです。プラスがマイナスを補うのではなく、プラスとプラスが掛け合わさり、さらにまた別の魅力となる。なんだかとってもロマンチックですよね!

私たち人間同士もお互いのプラスとプラスを掛け合わせ、より魅力的な関係を築いていきたいものですね!

最近伺った江戸川区瑞江のdeakin st coffee standのご夫婦は、本当にチャーミングで魅力的なカップルです!おふたりをテラス席から眺めているだけで、もう幸せな気持ちになれますよ!

写真は、deakin st coffee standのチョコレートココナッツケーキとハンドドリップコーヒー♡

恩赦について考える

恩赦に関し批判の声も多数あるので個人的な見解を。

批判も覚悟であるが、私自身は恩赦に賛成である。

例え私自身が犯罪被害者であったとしても、「恩赦に反対」の立場に転向を行うことはしたくないと思っている。

それはつまり、「人間の可能性を常に追求したい」からであり、自分自身を含めすべての人間は犯罪者予備軍であると思っているからである。

同時に人間は過ちを犯してしまう存在であり、またその行為時代が本当に「悪」なのかどうか、判断しかねる事例もあるからである。(例えば大麻の所持や使用は本質的な意味において「悪」なのかどうか疑問である。立憲国家であり、罪刑法定主義である以上しょうがない側面もあるが、日本国内ではまるで悪人のように取り扱われ、社会的な制裁を受ける)。もしかしたら50年後にはコーヒーを飲んだら犯罪者になっているかもしれないのだ。(同様な意味においてアルコールの摂取とタバコの使用はかなりあやふやなラインにあり、時代や為政者によっては違法にも合法にもなる存在であると思う。)人間がこの世の中において生きて行く上では、「法律」をその判断基準にするべきではないと思う。基準を法律に置くのではなく、その人自身の中に価値基準を置くべきだ。

(もちろん、犯罪行為というものは決して「善悪」による判断ではなく、あくまで法律という一定のルールの「違反行為」でしかないという立場も理解でき、その違反行為に関しペナルティーを課しているだけに過ぎないという見解も十分に理解出来る。つまり、「犯罪行為=悪」ではないという考え方である。ある意味、そうした理解の方が物事はスムーズに理解しやすいかもしれず、他者からの理解も得やすいかもしれない)

さらに、「人を赦す」という行為が本質的な意味においてその人自身の人間性を高めるという点も恩赦を賛成する理由のひとつである。恩赦という行為が、立法府の判断を行政権が超法規的に覆す許されざる行為という意見もあるが、私の意見としては「そういう人間界の難しい考え方は一旦抜きにして」、一度再出発のチャンスを与えてもいいのではないかと思っている。

犯罪行為自体は許される行為ではないし、もちろんそんなことは本人も周りの人間も重々承知していることだろう。ここで重要なことは、「本人も悪いことをしたと思って反省しているだろう」と”周りの人間が期待する”ということである。もしかしたら反省していないかもしれないし、めちゃくちゃ反省しているかもしれない。それはそれこそ当の本人にしか分からない。周りの人間がその人に出来ることは、”その人を信じる”、そのことだけである。犯罪行為を行なってしまう人の多くは、その多くが人からの愛情や信頼を受けることが出来なかった人たちだ。足りないのは罰ではなく人の愛情だ。もちろん罪を犯している以上相応のペナルティーは受けなければならないのは当然だが、それ以上に周囲からの愛情や信頼が必要なのだ。もしかしたら10年、30年、あるいは50年掛かるかもしれないが、周りの人間がその当人への期待や信頼を諦めた瞬間、その当人の人間性回復の道も閉ざされたに等しい。

そうならないためにも、まずはその人のことを赦さなければならない。その人の生い立ちや周りの環境などを踏まえた上で、その人のことを赦さなければならない。もしかしたらその立場になれば、私自身も同じ行為をしてしまっていたかもしれない。「していない」、「するはずがない」ということは決して言えないように思うのだ。なぜなら我々人間は、理性的な判断よりも感情的な判断になりがちな生き物だからだ。だからこそ、人は理性的な判断を心掛けなければならないのであるが、得てして人は感情的な判断に流されてしまいがちである。それゆえ、間違いも犯す。

話が長くなってしまったが、恩赦制度には私は賛成であり、今後も継続されていくことが望ましい制度であると考える。

※補足であるが、なぜだか日本国内では“逮捕“をされただけでまるでその人が犯罪者であるような取り扱われ方や報道がされるが、そのような風潮は改められるべきだ。逮捕という行為はあくまで身柄を拘束する行為でしかなく、無実あるいは無罪かもしれず、犯罪行為はまるで確定していない段階での警察等の行為である。報道機関においては実名や写真等の公開は有罪確定後に行われるべきではないか。

2019年のカープを振り返る

2019年プロ野球シーズンセ・リーグは、ジャイアンツの優勝で幕を閉じた。僕が愛する広島カープはと言うと、優勝争いには絡んだというものの、みっともないゲームが余りにも多く、遂にはあと一勝足りずまさかの4位という結果でシーズンを終えた。つまり、クライマックスシリーズにも進出出来なかったのである。優勝は無理でもクライマックスシリーズには何がなんでも進出出来るだろうと、おそらく9割5分ぐらいのカープファンがそう感じていた中、また他チームのファンでさえそう感じていた中、まさかの4位という順位でシーズンを終えることになった。

では、2019年のシーズンを振り返り、カープの何がいけなかったのか。何が原因でV4を逃し、果ては4位という誠に残念な結果に終わってしまったのだろうか。

その原因を考えてみた場合、やはり中継ぎ投手陣、クローザー投手陣の崩壊という所に尽きるのではないかと思う。もちろん、丸がFAで抜け、田中広輔が不振だった、また精神的支柱だった新井も抜けたなどという点も少なからずチームの戦績に影響を与えたが、それ以上に中継ぎ投手陣とクローザー投手陣の不甲斐ない結果というものがチームの勝敗、ひいてはチームの順位に影響を与えたように思う。

昨年までは「逆転のカープ 」と呼ばれ、ゲーム中盤から終盤にかけてゲームを逆転し、その結果勝利を納めるという展開が印象的だったカープ 。

反転、今年は先制はするもののゲーム中盤から終盤にかけて相手チームに逆転を許し、そのまま敗戦を喫するという展開が実に多かったように思う。

つまり、チームのゲーム展開が昨年までと今年で大きく変わってしまったと言えるのだ。

ゲームを見ていても、正直6回や7回以降安心してゲームを見ていられるということはなかった。今村やフランスアをはじめ、中継ぎ以降のピッチャー陣のピッチングを冷や冷やしながら見ていたというのが正直なところだろう。

8月の京セラドームでの対タイガース戦での逆転負けや、9月に入ってからの神宮球場での逆転負け、横浜スタジアムでの7-0からの逆転負けなどは特に印象的で、それらのゲームは今年のカープ を象徴するようなゲームであったように思う。

もちろん、中継ぎ投手陣やクローザー投手陣の責任ばかりではなく、ここ一番での打撃陣の不振も今年のカープ の敗因の一因でもある。とは言え、やはり中継ぎ以降の投手陣がもう少し踏ん張ってくれていれば、という思いはファンとしては強い。

監督やコーチ陣の采配にも首を傾げてしまう瞬間もやはり何度かあった。現状のカープ選手層がそれまでのレベルなのだと言われてしまえればそれまでだが、それでもそれ以外の違う判断があったのではないかと思ってしまう瞬間が、特にシーズン終盤は多かったように思う。

とは言え、シーズンはもう既に終わってしまった。今年の日本一はジャイアンツかホークスか、というそういう時期である。

チームを3連覇に導いた緒方孝一監督は引責辞任し、新たに佐々岡真司新監督が就任した。2軍投手就任当初からこれは次期監督就任への布石かと感じていたが、それがいよいよ現実となった形だ。

チームの弱点を改善し、来年はチームを2年ぶりの優勝にぜひとも導いて欲しい。2019年シーズンの悔しさを胸に、2020年もカープ の応援を熱く続けたいと思います!