〜Cafe Voyage Tokyo〜清澄白河・Allpress Espresso〜

関本陽がおすすめするカフェをご紹介するシリーズ、「Cafe Voyage」。記念すべき第1回は、清澄白河にあるAllpress Espresso。コーヒーの味はもちろん、スタッフの方々が本当にフレンドリーで、心からみなさんにおすすめ出来るカフェです。

【ALLPRESS ESPRESSOのトーストとドリップコーヒー】

硬めのパリッとしたトーストと美味しいバター、そしていちじくのジャム。おともはいちじくのジャムとも相性のいいブラックのドリップコーヒーを。 フルーツのジャムと一緒にコーヒーを楽しむ時は、「ブラックは苦手!」って方もぜひちょっと我慢してブラックで楽しんでみてください!ポイントは、先にジャム、そのあとにコーヒーの順番です。そして、口の中にジャムを残したままコーヒーを口に含ませるのもポイント!フルーツの気持ちのいい酸味や甘みとコーヒーが絶妙にマッチして楽しめます!コーヒーも本来はフルーツ!フルーツとコーヒーのマリアージュをぜひ楽しんでみてください!

地下鉄清澄白河駅から徒歩10分。

https://jp.allpressespresso.com/find/tokyo-roastery

禁酒宣言。

2019年。関本陽は36歳になる。そんな今年、ふと思い始めました。人との飲み会以外ではお酒を呑む必要ないかな。お酒を飲んじゃうと、結局そのあと何もできなくなっちゃう(本読んだり音楽聴いたりインスタしたりブログ書いたり、そのこと自体はできるんだけど、結局正常で冷静な判断の下それらをできない)。お酒を飲まない状態がベストコンディションだし、酔うために呑む、みたいなアル中みたいな趣味はない。つまり、例えば夜7時にお酒を呑み始めたとすると、寝るまでの夜中1時か2時ぐらいまでの時間がパーになっちゃう。残された人生の時間も少ないし、自ら時間を殺すようなことはしたくたい。

人と話すのも、ぶっちゃけお酒の席じゃなくコーヒーとかジュースとかコーラ飲みながらの方がむしろいいや。お酒が入るとみんなも自分もいつものその人じゃなくなるし(多分アルコールのパワーで潜在的に感じていることを言葉にしているんだろうけど、つまり本質的にはその人が本当に考えていることを口にしてるんだろうけども、そこは理性で抑えて生活するのが人間の生活だと思う。)

上司や同僚のうわさ話や悪口を言い合う飲み会に使っているお金を、子どもの教育費や自分自身への自己投資に使ったら、この国はもっといい国になると思う。最近の若い人たちの「会社の飲み会には参加しません」という態度は、ある意味真っ当な態度なのかもしれない。世のおじさんたちよ、もっと自分の時間と自分のお金を大切に使おう。そうすれば老後資金2,000万円なんてすぐ貯まる。

魔法のランプは誰のもの?

先日、映画『アラジン』を楽しんできました。アラジン初の実写化ということで、今とても話題になっていますね!当日は3Dバージョンの作品を鑑賞して来たんですが、あの魔法の絨毯に乗って飛んでいる感覚も味わえ、作品の内容とともに本当に楽しむことが出来ました!

さて、今回のテーマはそのアラジンの作品の中に出てくる「魔法のランプ」です。言わずと知れた世界で一番有名な、あのランプ。何でも夢が叶っちゃうあんなランプがあったらいいなぁと、そんな思いを持たれている方も本当に多いんじゃないでしょうか。何でも夢が叶っちゃうなんて、そんなランプがあったら本当に夢のようですよね!

でも、今回この作品を観ながらふと思ったことがあります。それは、このアラジンという作品は私たちに何を伝えたいんだろうか?一体何を伝えたくてこのアラジンという作品は生み出されたんだろうか?ということです。

僕なりに考えた結果、おそらくその答えは、「魔法のランプはあなた自身の心だよ」ということであるように思います。魔法のランプそのものもあなた自身の心であり、そしてそのランプから現れ夢を叶えてくれる魔法使いジーニー自身もあなた自身の心。ランプもジーニーもあなたそのもの。そんなメッセージであるような気がしてなりません。

つまり、「あなたが望めば何者にでもなれ、どんな夢でも必ず叶う。人生はあなた自身の好きなようになる」。そのことをこの作品は伝えたいのではないかと、そのように思います。ディズニーが世界中の子どもたちに伝えたいメッセージはそこにあるでしょうし、原作である『アラジンと魔法のランプ』を著した著者も、きっとそのことを伝えたかったんじゃないかと、そのように感じています。

落ち込みそうになった時は自分の心をキュキュッと擦り、決して諦めない心を自身の目の前に登場させたいと思います。大きな勇気を与えてくれる、そんな作品でした。これからも多くの人がアラジンという素晴らしい作品に出逢えるといいですね。

今日も読んで頂きありがとうございました。みなさんの人生がより幸せに満ち溢れたものになりますように。

美味しいってなに?

今日のテーマは、美味しさ。

私たちが日々生活している中で“美味しい”“美味しくない”っていう表現によく出会いますよね。このハンバーグは美味しい、とか、このパスタは美味しくない、とか。僕自身コーヒーや紅茶の世界で働いているので、“このコーヒーは美味しい”、とか、“この紅茶は美味しくない”、とか、こういった表現は日常的に使います。

でも、この“美味しい”とか“美味しくない”って、一体なんなんでしょう?“美味しいもの”は誰が食べても美味しくて、“美味しくないもの”は誰が食べても美味しくない、のでしょうか?少し難しい言い方をすると、「客観的に美味しいもの」って存在するんでしょうか?日本人が食べても、ブラジル人が食べても、ガーナ人が食べても、美味しいものはやっぱり“美味しい”のでしょうか?

この“美味しさ”というものを話題にする時に必ず出てくるワードが、「好み」というワード。「わたしはとんこつラーメンが好き」とか「わたしは辛いカレーの方が好き」とか、「わたしは深煎りのコーヒーよりも浅煎りのコーヒーが好き」などという、“個人の好み”に関する問題です。先ほど出した“客観的”という言葉に対し、“主観的な”内容の言葉ですね。

多くの場合、「わたしはとんこつラーメンが好き」と言っている本人は“とんこつラーメンは美味しい”と思っている訳です。反面、「わたしはとんこつラーメンが嫌い」と言っている本人は“とんこつラーメンは美味しくない”と思っています。この場合の「美味しい」はある意味“好き”というニュアンスに近いのかもしれませんね。「美味しい」と「好き」が同様な意味で使われています。(言っている本人はそのつもりはないかもしれませんが)

「辛いカレーが好きな人」は「辛いカレーが美味しい」と思っており、当然のことながら「辛いカレーが嫌いな人」は辛いカレーのことを「美味しくない」と思っています。深煎りのコーヒーを問題にするにしても、 同じようなロジックが成り立つはずです。

では、こういった場合に言う“美味しさ”というものは本質的な意味での“美味しさ”を表現しているのでしょうか?いや、そもそも“本質的な美味しさ”って存在するんでしょうか?

僕自身のこれまでの経験からすると、おそらく「客観的な美味しさ」というものは存在するように思います。ただ、食材を調理した状態である、いわゆる「料理」に対しては客観的に評価を下すことができるのか、正直よく分かりません。とんこつラーメンを食べて、日本人でもブラジル人でもガーナ人でも、皆が同様に客観的に美味しいという評価を下せるのかどうかはなかなか難しい問題でしょう。人の味覚は育ってきた環境で何を食べて来たのか、父親や母親にどのような料理を作って貰っていたのかなどの外部要因による影響をやはり受けるため、それはつまり個々人の“経験”といったものが味覚に影響を与えるため、ある料理を人類みなが美味しいと感じるかどうか、またその料理を客観的に美味しいと評価出来るかどうかはなかなか難しい問題であると思います。念のために断っておきますが、ここで言う“美味しさ”は、体調がいいとか悪いとかの生理的要因や、気温が高いとか低いとかの環境的要因は考慮しないものとしています。あくまでベストコンディションでの客観的評価です。“空腹が最高のスパイス”とは別次元のお話です。

そんなちょっと難しい問題を抱える美味しさの問題ですが、とはいえ、同じ文化の中で育って来た人たちの中であれば、ある程度精度の高い“客観的な美味しさ”という評価を下すことが出来るのではないかと思っています。つまり、比較的同じようなものを食べて来た日本人の中であれば、“客観的に美味しいとんこつラーメン”を決定することができ、さらに他の地域の人達よりもよりとんこつラーメンを食べているであろう福岡の人たちの方が、より“客観的に美味しいとんこつラーメン”を評価出来るのではないかということです。それでも“本当に”美味しいかどうかという問題は依然残りますが、ガーナ人よりはその精度は高くなるように思います。

このことはつまり、「客観的に美味しいと言えるかどうか」という問題において、その対象となるものをこれまでに何回食べているのか、という数的な経験の問題と、どれだけ種類が異なる同様のものを食べているのか(とんこつラーメンに例えるとどれだけ違うお店のとんこつラーメンを食べているのかなど)、という対象物の比較経験、という2種類の“経験”という要素が大きく関わって来るのではないかいうことです。比較経験においては「美味しくないもの」を経験していることも求められてきます。マイナスを知らなければ、当然プラスを認識することが出来ません。

美味しいとんこつラーメンを決めるのにはやや時間が掛かりそうですが、より“客観的な美味しさ”が判断しやすい分野もあるように思います。それは「食材そのもの」を問題にした場合の美味しさです。つまり、野菜や果物、生のお魚やお肉といった、調理された状態のものではない、素材本来の味を味わうことが出来るものですね。これにチョコレートやパン、コーヒー、紅茶、米、そばなど、やや加工を施したものも食材そのものに近いグループに含まれるでしょう。味付けのされていない出汁やスープもこのグループに入るかと思います。

これらの食材に関しては、どの国で育ったのかや、どのような両親によって育てられたのかなどというものはあまり問題にならないのではないかと思っています。

ただ、この“美味しさ”に関する問題。その美味しさを見極めるためには、やや能力的な問題も関係してくるのではないかと思ったりしています。つまり、美味しさを見極める能力が高めの人とそうでない人がいるのではないかということです。分かりやすいところで言うと、アンジャッシュの渡部建さんは美味しさといったものを感じるその能力が高く、感度も客観的な美味しさを示しているのではないかと思います。彼の言う「美味しい」は決して彼の「好み」ではなく、誰が食べたとしても感じることの出来る“客観的な美味しさ”。そのようなものであると思っています。それゆえ、彼は多くの人に支持されているのではないでしょうか。

今回テーマにした「美味しさ」という問題ですが、おそらくそう簡単には答えは出ない問題であろうと思います。ただ、だからこそ大変おもしろいテーマであり、奥が深く、国籍を問わず世界中の多くの人たちが興味を持つ問題なんだろうと思います。答えがなかなか出ないからこそ、いやもしかしたら答えなんてそもそもないかもしれないけれど、それでも答えがあると信じて探究する。そういった感じでしょうか。

色々と述べてきましたが、純粋に美味しいものは楽しい。美味しいものは私たちにほかでは替えることのできない、独特の幸福感をもたらしてくれます。そんな食という存在に感謝しつつ、これからもフードジャーニーを歩み続けていけたらと思います。

今日もお読み頂きありがとうございました。みなさんの人生がより幸せに満ち溢れたものになりますように。

そのまちが持つオーラ

いろいろな町を旅したり住んでいると、その町がもつオーラというものに敏感になる。

父親の転勤の影響で、和歌山、大阪、滋賀、岡山という土地で幼少期と青年期を暮らし、大学時代は山梨、大学を卒業してからは東京で暮らした。

大学時代には鉄道や船を利用し、日本一周旅行を行なった。ゆっくりと時間をかけて巡りたいところではあったが、当時は10日間ぐらいでのハイスピードでの日本一周であった。ただそれでも、日本各地の違いを肌で感じ取ることが出来た。

大学入学の頃から父親が単身赴任となり、赴任先が変わる度に父親のもとにも遊びに行った。訪れた町は松江、高松、京都、高知。父親が暮らしている町とともに、その町の周囲の町もたくさん訪れた。それぞれの町にそれぞれの雰囲気があり、見える景色、聞こえる音が全く違う。そして何よりもオーラが違う。その町が創り出す、その町独自のオーラだ。

東京という街をひとつ取ってみてもそうである。北千住、渋谷、品川、中野、吉祥寺。三軒茶屋、築地、銀座、六本木、自由が丘、浅草。どの町も立派なひとつの町ではあるが、それぞれが持つそのオーラはまるで違う。何十年、何百年とかけて創り出してきた、その町独自のオーラである。オーラ、それは波長という言葉でも表現できるだろう。その町が放つオーラ、その町が放つ波長。私たち人間は感覚的に存在しているそれを、動物が持っている本能的な嗅覚で無意識の内に感じ取っているのだろう。

そして、たくさんの町が独自のオーラを持つように私たち人間もまた、その一人ひとりが独自のオーラ、波長を持っている。そして私たちは、自らの波長と町の波長が一致する時、無意識的に“この町に住みたい”、“この町はいい町だ”と感じ、その結果その町の波長にフィットした人たちが自然とその町に集い生活をスタートさせる。そして段々とその町の波長が形創られていくのだ。その町の波長はその町の波長であると同時に、その町に住む人たちの波長でもあったのだ。

「自分自身のフィーリングに沿って生きる」。このことはわたしたちが幸せな人生を手に入れるために必要な、大切な方法のひとつなのかもしれない。他の誰でもない、あなた自身の感覚。みなさんが、みなさん自身の人生の中において、とっておきのベストタウンに出逢えますように。住みたい町に住む。それは人間の大きな幸せのひとつだ。

今日もお読み頂きありがとうございました。みなさんの人生が幸せに溢れたものになりますように。

日常も世界一周

小さいころの僕の夢は宇宙飛行士になることだった。小さいころの母親との会話で「ねぇねぇ、大学って宇宙を専門に勉強することもできるの?」「宇宙?うん、できるわよ」。そんな会話をワクワクしながら交わしたことを35歳になった今でも覚えている。父親が科学が好きだったため、傍らに科学誌「Newton」がいつも置いてあった。魅力的な表紙が特徴だったことも手伝い、記事の内容は分からなくても、この世界の広大さや宇宙の不思議さを肌で感じながら育つことができた。そのような意味において、優しく質問に答えてくれた母親や、科学を身近な存在にしてくれた父親には本当に感謝している。

さて、そんな関本陽は見事に宇宙飛行士になることができたのか?答えは残念ながらNoである。超難関な宇宙飛行士選抜試験に合格し、世界中のメディアからの取材を数限りなく受け、地球上空からパラシュートに乗って無事太平洋に帰還するという壮大な夢は、残念ながら叶えることはできなかった。

数学や物理が大の苦手で、英語も大学入学程度の人並みレベル。あぁ、生まれ変わった次の人生でもう一度宇宙飛行士を目指すか・・・悲嘆にくれながら暮らしていた。

しかしである。ある時ふと思ったのである。ちょっと待てよ。よく考えれば地球っていう惑星(ほし)もこの広い宇宙の中の貴重な天体のひとつじゃないか!その貴重な天体のひとつである地球っていう惑星(ほし)の上に毎日僕らは暮らしてるんじゃないか!ってことはもうすでに僕らは、そして僕は宇宙遊泳してるようなもんじゃないか!地球っていう惑星(ほし)を毎日旅してるんだ!もうすでに宇宙飛行士になってるんだ!そうだ!もう僕は宇宙飛行士なんだ!

そんな風に、ある時思ったのである。というか、思い込むようにしたのだ。そんな風に思い立った日以降、「今日からは毎日が宇宙遊泳だ!」「今日からは毎日が地球旅行だ!」「日常もすべて宇宙を感じるための時間なんだ!」と思うようになり、いつしか僕自身の夢は「この地球という惑星(ほし)を、この地球という世界を、隈なく巡り経験すること」に生まれ変わっていた。ちょっとした国内旅行も世界を経験することの一部であり、はじめて訪れるとなり町からの青空も、それはそこからしか見ることの出来ない、貴重な地球上からの経験となる。同じ光景を何億光年、何兆光年離れた世界からは決して見ることは出来ないのだ。それはまぎれもない事実である。

この世界を味わい尽くそう!この地球を経験し尽くそう!

2019年5月の関本陽はそんな風に感じ毎日を暮らしています。ブログのタイトルもそんな思いを込め「日常も世界一周」としました。僕自身の人生のタイトルであるような気もします。

日常も世界一周。地球に生まれた喜びをかみしめる。「関本陽の地球滞在記」。そんなイメージでこのブログを綴っていけたらと思います。

みなさんの毎日がハッピーで幸せに溢れたものになりますように。

お読み頂き、そしてこうしてご縁を頂き本当にありがとうございます。これからどうぞよろしくお願いいたします。