恩赦に関し批判の声も多数あるので個人的な見解を。
批判も覚悟であるが、私自身は恩赦に賛成である。
例え私自身が犯罪被害者であったとしても、「恩赦に反対」の立場に転向を行うことはしたくないと思っている。
それはつまり、「人間の可能性を常に追求したい」からであり、自分自身を含めすべての人間は犯罪者予備軍であると思っているからである。
同時に人間は過ちを犯してしまう存在であり、またその行為時代が本当に「悪」なのかどうか、判断しかねる事例もあるからである。(例えば大麻の所持や使用は本質的な意味において「悪」なのかどうか疑問である。立憲国家であり、罪刑法定主義である以上しょうがない側面もあるが、日本国内ではまるで悪人のように取り扱われ、社会的な制裁を受ける)。もしかしたら50年後にはコーヒーを飲んだら犯罪者になっているかもしれないのだ。(同様な意味においてアルコールの摂取とタバコの使用はかなりあやふやなラインにあり、時代や為政者によっては違法にも合法にもなる存在であると思う。)人間がこの世の中において生きて行く上では、「法律」をその判断基準にするべきではないと思う。基準を法律に置くのではなく、その人自身の中に価値基準を置くべきだ。
(もちろん、犯罪行為というものは決して「善悪」による判断ではなく、あくまで法律という一定のルールの「違反行為」でしかないという立場も理解でき、その違反行為に関しペナルティーを課しているだけに過ぎないという見解も十分に理解出来る。つまり、「犯罪行為=悪」ではないという考え方である。ある意味、そうした理解の方が物事はスムーズに理解しやすいかもしれず、他者からの理解も得やすいかもしれない)
さらに、「人を赦す」という行為が本質的な意味においてその人自身の人間性を高めるという点も恩赦を賛成する理由のひとつである。恩赦という行為が、立法府の判断を行政権が超法規的に覆す許されざる行為という意見もあるが、私の意見としては「そういう人間界の難しい考え方は一旦抜きにして」、一度再出発のチャンスを与えてもいいのではないかと思っている。
犯罪行為自体は許される行為ではないし、もちろんそんなことは本人も周りの人間も重々承知していることだろう。ここで重要なことは、「本人も悪いことをしたと思って反省しているだろう」と”周りの人間が期待する”ということである。もしかしたら反省していないかもしれないし、めちゃくちゃ反省しているかもしれない。それはそれこそ当の本人にしか分からない。周りの人間がその人に出来ることは、”その人を信じる”、そのことだけである。犯罪行為を行なってしまう人の多くは、その多くが人からの愛情や信頼を受けることが出来なかった人たちだ。足りないのは罰ではなく人の愛情だ。もちろん罪を犯している以上相応のペナルティーは受けなければならないのは当然だが、それ以上に周囲からの愛情や信頼が必要なのだ。もしかしたら10年、30年、あるいは50年掛かるかもしれないが、周りの人間がその当人への期待や信頼を諦めた瞬間、その当人の人間性回復の道も閉ざされたに等しい。
そうならないためにも、まずはその人のことを赦さなければならない。その人の生い立ちや周りの環境などを踏まえた上で、その人のことを赦さなければならない。もしかしたらその立場になれば、私自身も同じ行為をしてしまっていたかもしれない。「していない」、「するはずがない」ということは決して言えないように思うのだ。なぜなら我々人間は、理性的な判断よりも感情的な判断になりがちな生き物だからだ。だからこそ、人は理性的な判断を心掛けなければならないのであるが、得てして人は感情的な判断に流されてしまいがちである。それゆえ、間違いも犯す。
話が長くなってしまったが、恩赦制度には私は賛成であり、今後も継続されていくことが望ましい制度であると考える。
※補足であるが、なぜだか日本国内では“逮捕“をされただけでまるでその人が犯罪者であるような取り扱われ方や報道がされるが、そのような風潮は改められるべきだ。逮捕という行為はあくまで身柄を拘束する行為でしかなく、無実あるいは無罪かもしれず、犯罪行為はまるで確定していない段階での警察等の行為である。報道機関においては実名や写真等の公開は有罪確定後に行われるべきではないか。